世間は西暦2025年、令和7年、皇紀2685年を迎え、自宅にも家族宛ての年賀状が届きました。
年賀状は毎年このような表紙を付けて青色の輪ゴムでとめて配達されるのが常となっており、私の住んでいる横浜市では今年も午前と午後の2回届きました。年始からありがとうございます。
ところで私自身は今年は喪中なので年賀状は作りませんでした。昨年(2024年)に伯父が亡くなったのです。しかし数が少ないのであえて年賀欠礼状は作成せず、年賀状をいただいた方向けに年が変わったことを記念するカードをお送りすることにしていました。それがこちらで、フィラテリストマガジンの毎年恒例となっている大名刺交換会企画にもこの画像をお送りしています(はがきとして送る場合には住所を印字)。画像を見ていただければおわかりのように、ここには『明けましておめでとうございます』や『謹賀新年』といった言葉はいっさい書いていません。あくまで年が変わったことを記念するカードだからです。
このような場合、通常は年賀状の返礼として寒中見舞いはがきを出すのだと思います。しかし、喪中であることを知らせていないのは私の都合なのに、寒中見舞いはがきが返ってきたら申し訳ない気持ちになるのが人情というものです。それもまたおかしな話なので、あえてそうした対応は取りませんでした。
この『自分が喪中の場合は年賀状を出さないし、あらかじめ相手にも断っておく』という対応、これは至極当然の感情だとは思いつつ、どうにも異を唱えづらい空気があるように思います。しかし喪中の場合は対応を変えるという行為は、日本郵便にとってドル箱的な存在である年賀状の枚数を減らすことにつながると思うのです。
つまり年賀状であれば創意工夫を凝らして作ることもあるでしょうが、寒中見舞いの場合は出来合いのものを使うことが多く、結果として喪が開けても再び年賀状を作るということをしなくなる人は決して少なくないだろうなと思うのです。年賀状を作る面倒くささに気がついてしまうからです。これは日本郵便としては内心、あまりよろしくない事態なんじゃないでしょうか。
30年くらい前までは世間にプリントゴッコというものがあり、郵便はがきの挨拶状を大量に作ること自体が楽しい行為として認識されていたように思います。しかしこれは毎年行っているからこそ継続できるのではないでしょうか。
実はこういうことを私は20年以上前に祖父が亡くなり実際に喪中というのを体験したときから考えていました。これは年賀状の数を減らす風習ではないか? しかし時代の流れはそれと関係なく、年賀状の数がどんどん減っていきました。言うまでもなくインターネットの発展により、わざわざ紙媒体でなくても手軽に、そして安価にメッセージを送ることができるようになったからです。その事自体は時代の流れとして受け入れるとしても、年賀状愛好家ともいうべき方々を少しでも残すために郵政当局に何かできる方策はあったのだろうか? と今さらながらに考えるのです。喪中の場合に送る年賀状でも年賀失礼でもない、第三の方法を考えても良かったのではないかと思うのです。
しかし、もはや事態は手遅れ。年始の挨拶を交換するという文化はなくならないでしょうが、それを行う手段は時代によって最適と考えられるものが選択されていきます。もはや紙媒体の年賀状が減っていくのを止めることはできないでしょう。ネット経由での通信手段の発達やいわゆる『年賀状じまい』の広まりなど、年賀状を出さない言い訳がいくらでもできてしまったからです。暑中見舞いは数年前に『かもめ~る』がなくなり、くじのない『夏用はがき』へと代わりました。年賀はがきもいずれ根本的な変更が行われるでしょう。
それにしても、1月1日に届くように送ってくる郵便物を年賀郵便にしない郵趣組織はセンスがないとしか言いようがないね。